和太鼓の歴史

日本の伝統楽器「和太鼓」。

その歴史は古く、日本を代表する伝統楽器と言われています。

ところで、一体和太鼓はいつから日本に存在し、どのように使われてきたのでしょう。

このレポートでは、そんな和太鼓の歴史を紐解いていきたいと思います。

太鼓の歴史は古く、縄文時代のころから日本に存在していたと言われています。

長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器(有孔鍔付土器)も出土しており、情報伝達の手段として和太鼓が使われていたと推測されています。

また、群馬県佐波郡境町の前橋天神山古墳からは「太鼓を打つ人物埴輪」像が出土しており、古墳時代(3世紀末~6世紀)には日本に太鼓が存在していたことがわかっています。

太鼓が初めて文献に登場するのは712年に成立した「古事記」です。

中巻、仲哀天皇の項の「酒楽の歌」に「曾能都豆美 宇須邇多弖々宇多比都々(そのつづみ うすにたててうたいつつ)」とあり、「都豆美」が太鼓と言われています。

*ちなみに「つづみ」という読みは、古くから太鼓のことを「ヅンヅビー」とよんでいたインドから伝わっていた外来語で、古墳時代から日本との交流が活発になった朝鮮半島を経由してその発音が日本に伝わり、万葉仮名をはめて「都豆美」と書き表したものといわれています。その後、飛鳥時代に中国から羯鼓や鉦鼓などの打ち物が「鼓(こ)」として渡来したのにともない、太鼓をさす「都豆美」という文字も次第に「鼓」の文字に置き換えられるようになったとみられます。

同じく古事記の別箇所では、岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」との記述があります。

アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、足を踏みとどろかし、八百万の神々を大笑いさせることで天照大御神を引き出し、再び世界に光を戻した、という話があり、ここでも太鼓ではないが、「槽(うけ 特殊な桶)」が登場し(恐らく皮を張っていない状態の桶)、太鼓の原型として使われていたことが分かります。

以上のように、非常に古くから日本に存在してた太鼓。

では、太鼓はどのように使われてきたのでしょうか。

まず、縄文時代〜古墳時代、相当古い時代では、情報伝達の手段として使われていたと考えられています。

また、太鼓は収穫に感謝する新嘗祭や各地に作られた神を祀る社などで神を迎える神具、 呪具の1つとして用いられてきました。古来、太鼓の音は雷 (神鳴り=神の声) に模され、 絶大な霊力を持つと考えられていたからであると考えられます。 神聖な力をもち、 大きく遠くまで響く太鼓を打つことは、天の神に願いを届けることになるとされていました。

その後中国から胴の中央部を細くくびれさせたくり抜き胴の腰鼓(くれつづみ)や細腰鼓が伝わり、後に羯鼓や鉦鼓ととともに宮廷音楽で奏でられる雅楽に取り入れられ、日本人独特の様式美と美意識によって、より機能的かつ装飾的に形を変えていきました。

雅楽の中では、壱鼓、三ノ鼓、楽太鼓、鼉太鼓など、様々な形に変化していきました。

一方、民俗芸能として発展してきた田楽や猿楽の流行を経て、室町時代に観阿弥・世阿弥親子によって能楽が体制されると、細腰鼓の二鼓を原型として小鼓と大鼓が完成し、胴の浅い締太鼓とともに、歌舞伎や長唄囃子などにも使われるようになりました。

以上にある太鼓はいずれも胴の両端に革をあて、調緒で締める締太鼓の仲間でありますが、鉄鋲を用いて革を直接胴に留める鋲留め太鼓も古くから日本では使われてきました。

鋲留め太鼓は、楽器である以前に、「時」を知らせる信号具として飛鳥時代から鐘とともに用いられてきました。

この形の太鼓は古代の日本にはみられず、やはり中国から朝鮮半島を経由して流入したといわれています。

平安時代に入ると、鋲留め太鼓はその音響の大きさから、陣太鼓として盛んに用いられるようになりました。

「前九年合戦絵絵詞」などに陣太鼓として使われている鋲留め太鼓が記録されています。

鋲留め太鼓は江戸時代以降、時報や登城の合図、寺社の念仏、相撲や芝居のふれ太鼓、祭り囃子、盆踊りなど、さまざまな場面に使われるようになりました。

以上のように、日本の歴史の様々なシーンで打ち継がれてきた太鼓。

これから先、日本の太鼓はどのように使われ、そして、どのような音色を奏でていくのでしょうか。

100年先200年先の未来も、日本各地に太鼓の重厚で深淵な音色が響き渡っていることを願ってやみません。

(参考文献)
財団法人浅野太鼓文化研究所「たいころじい」第29巻